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Division3
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   “Spring League”
さて、プライベートクラブは、新参者には魑魅魍魎の世界!
多くのカナダのクラブは、メンバーであっても、自分たちで“Foursome”(4人組)
をセッティングし、コートを予約してプレーをするので、相手がいなければテニス
は出来ません。
ちなみに現在私が所属している日本のテニスクラブは、一人で好きな時間に
ぶらりと行って、コートナンバーが書かれているボードに自分の名前を記入すると、
自動的にゲームが出来る気楽なシステムで、 とても便利です。
そのカナダでの“入会出来たのは良いけど、相手が見つからない!”っと言う問題は、
私の場合、Women's Mastersで知り合った当クラブの会員達が声を掛けてくれた
ので、楽々クリアーでした。
グレート・バンクーバーには30近くテニスクラブが存在し、毎年、“Spring League”
と言われるクラブ対抗リーグで4月から6月まで、熱い戦いが繰り広げられています。
カテゴリーはDivision5から Openまで、Day Time, Night Times,Men, Women,
そして、SinglesとDoublesに細分化され、夫々のレベルに適応 したチームが存在し、
各Divisionは最多12チームによって構成されています。(現在Division2はAとBがある)
そして、全チームが、HomeとAwayを交え、総当りで戦うのです。
(12チームだと、11回ゲームがある)
チームは最強ペアのコート1から順次コート4に分かれ、夫々が相手側の同コート
の選手と対戦するのですが、3セットマッチで勝てば1ポイント獲得出来ます。
(チームが4勝すれば4ポイントゲット、一勝も出来なければ0点です。)
そして、最終獲得ポイントで順位が決まるのです。
Homeのチームは、ゲームを終えた後の昼食会を催さなければなりませんが、
Awayは逆に対戦相手のゲストで、 ランチをご馳走になります。
そのDivision の優勝チームは翌年、上のDivisionに昇格出来、最下位
(1チームとは限らない)のチームは下のDivisionに格下げです。
テニスだけではなく他のクラブとの懇親会もなされ、なかなか上手に管理された
素晴らしいシステムだと感心しました。
日本にもこんなシステムがあれば良いと感じています。
それ故、春の間、どこのクラブもこの“Spring League”で大変盛り上がっているのです。


   At my Home Party 自宅のガーデンパーティにて
後列左:ウイニー(Winnie),デニーズ(Denise),ジェネビーブ(Genevieve),
クリスティーナ(Christina),アニタ・チェン(Anita-Chen),Junko そして、前列:アニタ・ウォン
(Anita-Won),エミリア(Amelia),メービス(Mavis),パシータ(Pacita)


話を私のプライベートクラブ、デビューに戻してMastersで知り合った香港出身のアイリーン
やソナタ、そして、 ポルトガル人の血を引き継ぐハワイ育ちのエミリア達と週に1〜2回テニス
をする姿がDivision3のキャプテン・ウイニー の目に留まり、彼女達のチームに誘われる運
びとなったのです。
このチームはとてもユニークなチームで、クラブが中国人の移民が多いリッチモンドにあった
事も手伝って、全てが移民の中国人達でした。中国人と一言言っても、香港出身の者や、
台湾、マレーシア、マカオ、そして、フィリピン と多種多様、其処に、日本人の私が参加する
事になったのです。
まさにオリエンタルチームでBC州広しと言えど、 こんなにユニークで特殊なチームは他には
いませんでした。
キャプテンのウイニーは香港出身の、頼り概のある親分肌、彼女の大親友、チームで一番
テニスが上手なジェネビーブはマニラ出身のチャーミングな最若手です。
香港出のメンバーは一番多く、ウイニーの幼馴染、クリスティーンと歌好きなその姉のデニーズ、
料理上手なアニタ・ウォンと頭脳明晰なアニタ・チェン、女らしいメイビス、また当時、産休を
取っていた可愛いアンジェラ、そして、カナダ生まれの勝気な中国人マリアン、台湾出身のメリー、
私のパートナーで友人だった、フィリピン出身の美人でとても魅力的なパシータ、そして、
Mastersで知り合った、いつも優しく相談相手に乗ってくれていた年配のエミリアです。
彼女たちはテニスだけではなく、私生活でも、マージャンや食事会等で家族付き合いをして
いる特別親密な関係のチームでした。
このチームにはユニホームまで存在しており、試合の日には必ずそれを着用しなければな
らなく、それにはいささか恥ずかしい思いをさせられました。
彼女達の為、応援歌を作曲したのはTennisのページでご紹介しています。
毎年、年明け早々から、この“Spring League”に向けて、夫々のチームは猛練習に励むのです。
、、っと言っても私のチームは、日本の様にストロークをするとか、玉だしをしてテクニックの
向上を図るのでは無く、ひたすらパートナーと組んでゲームをするのです。
私が入会した最初の年、1995年はDivision4で優勝してDivision3に上がって来たばかり
だったので、Division4に格落ちしない事が最大の目標でした。
約2ヶ月の間、毎週のように試合をこなしていかなければならない為、初めは意気が
上がっていても、負けが続くとテンション も下がって来るので、モチベーションを持ち続ける
事は大変です。
Divisionの壁はかなり厚く、同じTopでもDivision4とDivision3では雲泥の差がありますが、
一方、 Division3の最下位はDivision4のTopより遥かに劣っているようでした。
一度下のDivisionに落ちたら中々這い上がってこられないのが何よりの証拠です。
常に実力が同じくらいの対戦相手と戦うのですから、試合内容も面白く、白熱したゲームが
展開されると言う訳です。
この年は無事Division3に残る事が出来、翌年1996年は好成績を収め、Division3の数が
増加した為2分裂する事になり、上位の3Aに行く事が出来ました。
1997年に入り、私はそろそろDivision2でチャレンジを求めてプレーをしたい旨をキャプテン
のウイニーに相談すると、彼女は快く承諾してくれました。
(後日談)私の抜けたDivision3は1998年、目出度く優勝!
翌年の1999年はこのチームは自力でDivision2に昇格したのです。
Division2はDivision3に比べ、相当の実力の差があり、私はコート2と1でプレイをさせて
貰っていましたが、勝つのはとても厳しいレベルでした。
チャレンジと言う意味では、正に文字道り、テニス内容も面白く、充実感を味わっていましたが、
一方、より一層勝敗にこだわる勝気なプレイヤーが多く、その分人間関係で結構苦労をした
苦い思い出があるのも事実です。

今でも楽しく思い出されるのは、Division3の懐かしい日々ばかりです。
よそ者(日本人)の私を彼女達の仲間の輪の中に快く招き入れ、温かく対応してくれた事には
心から感謝しております。
私の帰国後も、パートナーのパシータを初め、エミリア、アニータ等と毎年のXmasカードで
近況を確かめ合っているのですが、いつまでもその友情の絆を繋いで行けたらなぁ、、、
っと思っております。

このクラブでは、移民の日本人も多く、其の彼女達のテニスの技術が高かった為か、
クラブメンバーからは大変尊敬され、ステイタスも高く、私が新参者時代、随分と引き立てて
もらいました。
彼女達とはテニスはもちろんの事、宴会好きが多かった所為か、何かにつけパーティを開き、
夏のウイスラー旅行等、テニス以外でも楽しい時を共有した思い出が沢山あります。
また、言葉の面での障害が無い分、テニス以外の生活面でのアドバイスもして頂け、
その存在はとても心強く、他国の友人とは一味違う 友情を得た事と思います。

この様に、テニスは私にとって無くてはならないもの!
運動、ダイエット、ストレス発散や、時を楽しめる手段であるばかりでは無く、
“友“と言う素晴らしい宝を得ることの出来る、“魔法の杖”なのですから、、、、、。
これが私が歩んできたバンクーバーでのテニス行脚の全てです。